江戸時代 米搗屋
米搗屋は「大道の米搗き」ともいわれ、米を仕入れて精米し、消費者に売る仕事です。杵を担ぎ、臼を転がしながら市中を歩き、客をさがします。客に呼び止められると、玄関先や庭、道端に臼を置いて米をつき、精米します。食事は、たいがい客が出したようです。仕事がきつかったので普通の人の2倍以上も食べ、おかずには魚などがそえられたといいます。このような市中を回る米搗き屋は、店に代わって、江戸時代の末期には姿を消します。
江戸時代 舂米屋

杵と臼を担いで市中をまわって米を搗いて売る米搗屋は、だんだんすたれ、店を構えた舂米屋が登場します。舂米屋は、米問屋や札差が経営していて、玄米を精米して売っていました。店先には、桶に各地の米を入れて並べ、使用人を使って商いをしています。
精米の方法は、唐臼が取り入れられています。唐臼はシーソーのような腕木の端に足を乗せ、先についている杵で米をつく道具です。
明治・大正時代 米屋
明治時代になって米の取引が大きく変わりました。江戸時代までは、領主から米を買い取っていましたが、幕藩体制がなくなり、地租改正のもとで自ら米を買い集めなくてはならなくなりました。そのため、各集落をまわって米を集める買子、買子などが集めた米を買い取る仲買人が生まれました。米屋は仲買人から米を仕入れて売るようになりました。
米屋の仕事は、玄米を精米して売ることに変わりはなかったのですが、精米方法が、足踏み式から電動式にかわっていきました。なお、大正時代になると米価の変動が激しくなり、1912(大正10)年に米穀法を制定し、政府による米の買入・売渡・交換が行われるようになり、少しずつ政府の統制が始まりました。
昭和時代 米屋
昭和の初期ころから、戦時下に米の取引が大きく変わりました。1933(昭和8年)に米穀統制法、1939(昭和14)年に米穀配給統制法、1942(昭和17)年に食糧管理法がしかれ、国が米を直接管理するようになります。米屋は許可制になりました。その後、1969(昭和44)年に自主流通米制度ができ、1995(平成7)年には食糧管理法が廃止されて、自由な取引の時代へ移っていきました。
現在では、米穀商などが各産地のJAや集荷業者から米を集め、精米として商品化し、小売店やスーパー、コンビニなどで売られています。